2ヶ月前に万引き家族を観て、今日MONO NO AWAREの東京を聞いて考えたこと

友人と万引き家族を観たか?という話をしていて、自分の口から出てくる言葉に驚いた。

話の最中で、自分の言葉で新たに認識し直すことってあるよね〜〜〜〜


あの映画は、生産性を重視し循環を最優先させる社会からドロップアウトして隔絶された場所で独自の方法論で生きる人々、それをある社会の片鱗として描くことで、平等を標榜しながら競争を促進させる社会の暗部とも言える部分を炙り出そうとした作品だった、と記憶している。

何不自由ない生活を送れているかのように見えるマジョリティ側の人間を登場させた普遍的なドラマではない。つまり、その枠から外されまたは自ら外れたマイノリティ側の人間を描くことで、我々が普段目にしない、または見ようとしない側面を直接的に描写し、逆説的に社会の縮図を表現したものだった。


鑑賞直後、それはそれは落ち込んでしまい、アレは気軽にではなく心が健やかな時にしか観てはいけないものだ、と観てもないし観る予定のない友人を捕まえては念押ししたものだった。


しかし、万引き家族を観て僕は何故落ち込んでしまったのだろうか。


作中で描かれたことと同等なものとみなせる実際の経験に基づいた響き方ではないし、そもそも社会の格差や優劣も必要悪ではあるものの確かに存在していることは、学校や会社組織のなかに身を投じたことがあれば理解できる話の範疇であったはずだ。

もっと簡単に言えば自分と違う生活や人生がある、ということをきちんと理解出来ていれば、創作の影響が実生活や自身の情緒にまで影響を及ぼすなんて、とんだ繊細なヤローじゃねえかオメェはよぉ、って話で。


つまり何が言いたいかというと、創作であろうと実際の事件であろうと、外部から受ける衝撃が自分の生活に関係しているか、と言うと必ずしもそうではない。世界と自己は接続可能であると同時に断絶されたものであり、自己は自己として存在していて、同時に世界は自己と関係のない所でそもそも存在しているものである、ということだ。だからこそ、目にしたり聞いたりしたことは衝撃という運動性を持って自身に波及してくるし、自分の物語であると認識出来るということは、あらゆる作品や出来事は人格と接続可能性を持ってその体裁を為す、ということを確認したわけです。まあ万引き家族は人が作ったものなんで当たり前なんですけど。


そして、何故腑に落ちなかったのかと言うと、おそらく世界の存在はとても曖昧で、マイノリティとマジョリティ、と言う二項対立で簡単に説明できるものではない。世界はむしろ誰もが勝手に自身の思い入れや生活圏を可能な限り制定した上で自己の中に保つもので、その具現化したもので目に見える世界は構築されている。とするなら、万引き家族は、限りなく小さく我々の生活や認識の中に入り込んでいる不安感や不信感を、実際問題のフィクションと言う形で表現していたからこそ、観た後に我々の価値観を揺さぶってきたのだと思った。あの作品が問題提起をしても明確な答えを出してくれなかったのは、人々に思考する余白を、そしてその思考はどこに巡らせてもいいように社会を題材にして、残してくれたのだった。

人間はフィクションでもリアルでも受けたことから想像し、また新たな作品や自分の世界観と価値観を作る動物なんだよな、と思った。



そして良いタイミングにMONO NO AWAREは東京という曲でその思いを強くしてくれるような歌を歌ってくれた。

彼らが歌っていたことは、かなり実存的なことのように思えるし、東京で仕事をして東京で暮らす、というすごく普遍的なテーマであると同時に、誰にも関係なく、自身の話として投影できることのように思えた。

世界は自分とは無関係だけど、意識の向け方次第で接続出来る、そして接続した先に何を見るかは自分次第なんだよな、と思う。

最初に強くしてくれる、と言ったのは、単純に良いな、好きだな、と思える曲の中で、自分が普段もやついてることをスピットしてくれてるの、嬉しいよね、みたいなことです。



でも俺は東京に住んでません。あと、曲のURLは貼りません。

そして前半で言いたいことはほぼ言っちゃいました。